紫色の魚

text by Makuragi Oto(Twitter@makuragi_oto

 紫煙が揺れた。

 萩原はその模様をぼんやりと目で追った。くるくる。ぱたぱた。咥えた煙草に戯れに舌で触れては、薄くたなびく模様が変わる。消灯した部屋は暗いが、何も見えないほどではない。じきに朝になるのだろう。朧気に見える家具の輪郭が、カーテン越しの微かな光を浴びて、全体に紫色を帯びている。

 床から拾ったシャツは自分が着ていたものではなかったがそのまま袖を通した。素肌に触れた布地は薄く滑らかで、冷たい。元の持ち主の体温なんてとっくに忘れてしまったらしい。

 別に構わない。同じ熱が今も身体の奥に残っている。

 全身を包む心地よい倦怠感。鈍い痛みのような情事の残滓。それらを逃さないように、ゆっくり、細く息を吐いた。不規則に上下する煙草の先端で、摂氏八百度の炎が燃えている。音もなく肺を燻しながら、確かに近づいてくる。唇に。歯に。舌に。このまま離さずに口付けたら、どうなるだろう。熱いだろうか。痛いだろうか。その痛みはずっと残るだろうか。

 それはこの身体に残る跡よりも、熱く、長く残るだろうか。

 不意に腹に何かが触れた。熱い。視線を落とすと、燃え尽きた灰が腹の上に散らばっている。少しぼんやりし過ぎたようだ。ベッドには落とさないようにしなければ……そう思いながら何もせず、宙を漂う紫煙に目を戻した。

「おい、灰落ちてんぞ」

 そして背後から伸びた手が無遠慮に腹を撫でた。雑に払われた灰が舞い上がり、シーツに散る。あーあ、何してんだ、とは思ったが口には出さなかった。恐らく向こうも同じことを思っているだろう。

「ボーッとしてんじゃねぇ」

 耳に触れる柔らかさ。低く響く声。その中に混ざった不機嫌も心配も、萩原をひどく満ち足りた気分にする。

 愛おしい、と思う。

「しょうがねぇだろ。陣平ちゃんが情熱的だから参っちまうんだよ」

「情けねぇな」

「そう言わずに手加減してくれ」

「やなこった」

「……っ」

 返事に吐息が混ざって、跳ねる。腹に絡み付いた手が楽しげに肌を撫で、指先で臍を引っ掻いた。くすぐったさと僅かな快感に息を飲み、咥えた煙草の先端からパラパラと灰が落ちる。

 すかさずもう片方の手が口元に伸び、燃え続ける熱を取り上げられてしまった。ヘッドボード上の灰皿に押し付けられ、揺れる紫煙も潰れて消える。

「あー勿体ねぇ……」

「火傷してぇのか」

「そうさなぁ」

「あ?」

 背後に体重を預けた。薄いシャツ越しの体温は暖かく、萩原が凭れてもびくともしない。話の方向性を掴みかねてか、やや困惑した様子の恋人に、萩原はのんびりと続けた。

「松田が、つけてくれるならな」

 自らの胸元を撫でる。何度も何度も、しつこいくらいにつけられた跡がそこにある。ゆっくりと一つずつ指先で辿り、腹、腰、もっと下まで、数え切れないくらいたくさん。松田が口付けた跡が、愛おしい熱がそこにある。

 その全てが、いずれ消えていく。毎朝、毎晩、萩原が確認する度に薄れていく。

 目に見える跡を辿り終わって、最後に、松田の唇に触れた。

「お前の唇が八百度もありゃ、一生消えずに残るだろうにな」

「……馬鹿なこと言ってねぇで寝るぞ」

 強い力で引き寄せられる。抵抗せずにベッドに転がり、全身を暖かく包まれて、狭くて暗くて、心地いい。ぎゅうときつく抱き締められて、閉じ込められる息苦しささえも。

 もっとたくさん欲しくなる。

「な、キスしてくれ」

「こんだけ付けてもまだ足りねぇか」

「嫌か?」

「そうは言ってねえ」

 予想通りの返事に嬉しくなって、甘えるように鼻先を胸元に寄せた。差し出した項に松田が触れて、荒々しく歯を立てる。柔らかさも生ぬるさも他愛ない痛みも、すべて同じ熱に変わる。

 肌の上に残り、胸の奥を焦がす。

 時に苦しくなるほどのその熱を、両腕でしっかりと抱き締める。そして水底にゆっくりと沈むように、萩原は眠りに落ちていった。

 


イラストに枕木音さんが文をつけてくださいました。
アンニュイな雰囲気の中、二人のイチャつきが大変おいしいです。
ごちそうさまです。