爆発事件により、長く眠りについた萩原と、捜査一課に所属する松田の話。
松萩ですが、主に高木と事件を追いかけています。
高佐の表現あり。
じっくり重い話を読みたい人向け。
1
仄暗い病室で、かつての相棒の命の鼓動を松田陣平は聴いていた。電子音で可視化された鼓動は規則的に波打っている。ベッドサイドモニタから伸びた数本のコードが、遮光カーテンから洩れた陽の光に照らされた萩原研二の指先や胸に繋がっていた。
いつもと変わらぬ光景。変わらぬ日常となってしまった萩原の姿に希望を抱かぬように、溜め込んだ息を吐き出す。
松田はジャケットを脱ぎ、ネクタイの大剣と小剣をシャツの内ポケットに無造作に突っ込み腕をまくった。そっと萩原から清潔な掛け布団を剥ぐと、片脚ずつむくみ防止の着圧ソックを脱がせて、ゆっくりと片脚を持ち上げる。膝下から持ち上げ、もう片手でつま先を内側に曲げ、戻す。何度か繰り返すうちに、松田の額に汗が浮いてきた。これじゃあ、どっちの運動かわからねえな。そう心で愚痴りながら、丁寧に筋肉を動かしてやる。
看護師が巡回に来たが、松田の顔を見るなり「すっかり慣れましたね。うちの作業療法士より上手いかも」と言った。
筋肉を動かしてやるといいと聞いてから、近所の作業療法士の資格を持っている整体師にやり方を教わり、こうして毎朝のようにやってきてはリハビリを行っている。
「こっちは愛情がこもってますんで」
松田の軽口に、看護師は「うちの作業療法士にも言っておきます」と微笑んでから退室した。
つま先を持つ手に痛みを感じた。見ると足の爪が掌に食い込んだらしい。昨日切った感覚だったが、随分経っていたらしい。眠っていても、髪の毛も爪も伸びる。松田はベッド脇のチェストから爪切りを取り出して、足の爪を切り始めた。命の鼓動との合間に、爪を切る音が混ざる。
見慣れた光景の中にも、僅かな変化があった。それが、松田にとっては、生きているというささやかな希望だった。
捜査本部が設置された米花警察署の大会議室に遅れてやってきた松田は、最後列の椅子に座った。すでに遅れてやってくることを察していた高木渉がすぐさま松田のほうに席を詰める。高木は、以前は松田の同期であり長年捜査一課で刑事をやっている伊達航に付いていたが、松田が捜査一課に異動になってからは松田と共に行動している。「松田と喧嘩をしないのは、俺か高木ぐらいだろ」と伊達が判断したのだ。実際に、高木は物腰は柔らかいがタフな男なので、松田の喧嘩腰の言い方でもあまり腹を立てることはなく、いなしてみせた。はじめこそ「松田さんが怖くて」と嘆いていたが、最近では「慣れるもんですねえ」と軽口を叩くほどである。それでも本気で凄まれると一歩引いていた。
「また殺しが増えました。今度は89歳の高齢のおじいさんで、名前は沢木洋一郎。寝たきり自宅介護だったようです」
「家族構成は」
朝から病院、そして米花警察署へと直行したせいで煙草を吸う暇がなかった松田はヤニ切れに苛立ちを語句に匂わせていた。それでも、サングラスから覗く松田の瞳に、怒りよりも悲壮の色合いが濃いことを高木はこの4年で理解していた。
「71歳の息子、和俊と暮らしていたようです。妻の喜久子は20年前に他界。和俊が唯一の息子で、結婚歴がなく孫はいないようです」
「アリバイは」
「死亡推定時刻に近所のコンビニに買い物に出かけていました。防犯カメラにもはっきりと映っています」
「今までと同じか。完璧なアリバイな」
「ええ、不自然なほどに完璧なアリバイですね」
「くそめんどくせぇな」
声をひそめることなく愚痴たせいか、周囲の刑事らが振り返り睨みつけた。高木は「いやあ、すいません」と愛想笑いをすると「お前の後輩だろ。ちゃんと教育しとけよ」と真ん前の刑事が吐き捨てるように言った。捜査一課では高木は松田の先輩になるが、警察官としては高木のほうが後輩だ。
「伊達さんも何考えてんだか」
これはまずい、と高木が思った刹那に、松田は長机の下から前の座席を蹴った。予想通りの行動が起こり、高木は頭を抱える。
椅子を蹴られた刑事が怒号と共に立ち上がったところで、伊達が駆け寄ってきて鼻息荒い刑事をなだめた。
「そこ! なにやってんだ!」
会議の進行を邪魔された管理官がマイク越しに叱責する。伊達が刑事を座らせて「すみません、こいつちょっと体調悪いみたいで席外させます」と松田の首根っこを掴んで会議室の外に連れ出した。
「んだこら、離せ」
廊下に引きずり出された松田は、そのまま喫煙室へと連行された。ようやく離されたため、念願の煙草を口に咥える。
「で、萩原の様子はどうだったんだ」
伊達は煙草の代わりに爪楊枝を取り出して咥えた。
「特に、変わりねえよ」
伊達は「そうか」と小さく呟いてから「お前は、爆弾犯捕まえたら警察辞めると思ってたぜ」と重ねた。
「なんでそう思うんだ」
「4年前に爆弾犯を捕まえるまでは、お前は復讐に駆られた鬼そのものだったからな。目的を果たしちまったら、もう用はないだろう。不規則な刑事やってるより、もっと見舞いに行きやすい職を選ぶと思ってたんだ」
「用はまだある。警視総監を殴ってねえ」
「まだ言うか、それ」
警察学校卒業式でも、凶悪犯を捕まえて警視総監賞を授与したときも、松田が「警視総監を殴るために警察になった」ことを実行しなかったことを伊達は知っている。
「それよか、進捗はないまま次の殺しってか」
「申し開きがねえな、それに関しちゃ」
「班長は昨日現場に行ったんだろ」
「そうは言っても、もう仏さんは火葬された後だからな。今回もダンマリだ」
ダンマリというのは灰になった被害者のことだけではない。被害者遺族も、同様に詳細を話さないのだ。
連続介護殺人事件と名付けられたこの事件の奇怪な点は三つある。一つは被害者はいずれも寝たきりの要介護認定を受けた者。二つ目は、被害者はいずれも発見時にすでに火葬され骨壺の中に納められて発見されること。三つ目は、いずれも被害者遺族は多くを証言しないこと。この三つが事件解決の難易度を上げていた。
第一発見者になるのは介護者である家族だった。まず、寝たきりで動けないはずの被害者が、外出から戻るとベッドの上におらず、そこには骨壺が一つ置かれているだけであった。骨壺は小さく、全ての骨が入りきる大きさではなかった。基本的に火葬された遺骨からDNA鑑定を行うことは不可能であることから、被害者本人である確証はない。だが、犯人はご丁寧にも、棺桶に入棺された被害者の写真を骨壺と共にベッドに置いていた。
寝たきりの要介護者と普段から接触する者は限られている。自治体のケアマネージャー、介護福祉士、または担当医師と看護師、そして家族ぐらいのものだ。まず初めに家族が疑われる。だが、いずれの家族も死亡推定時刻には公共施設の防犯カメラに映り込んでいるためにアリバイが立証されている。さらに、一般人が火葬場を利用せずに遺体を綺麗に火葬するのは難しい。そして火葬場を利用するには火葬許可証が必要となり、また火葬許可証を発行するためには医師による死亡診断書及び、検死が執り行われた際の死体検案書の提出が必要となる。
アリバイはあるにせよ、被害者遺族たちがこぞって口をつぐんだり、あるいは証言をはぐらかすのは何か事件に関わりがあることは間違いない。だが、どうやって被害者を運び出し、骨になるほどの高温で焼いたのか。
「火葬には約一時間近くかかるが、もっと高温で燃やせば早く骨になるかもしれんな。一般的な火葬ならば温度を上げすぎると骨まで燃え尽きちまうから、およそ千度近くで燃やすそうだ」
「班長はどう考える?」
「状況だけ見れば怪しいのは被害者遺族になる。だが、過去3件の殺人事件の被害者にも遺族にも繋がりがない」
「寝たきり介護者の会とか、ネットの闇サイトとか」
「もちろん調べた。一件目の遺族はNPO法人に会員だったが、他は入っていないな。遺族も高齢でスマホすら持っておらずPCもちろんない。闇サイトのやの字も出てこねえよ」
「だからめんどくせえって言ったんだ」
「確かにめんどくせえ事件だな。遺族が誰かに金を払っている痕跡もねぇ。誰が何のためにこんなめんどくせぇことをやってんだか」
伊達のため息を見ると、よほど捜査に進展がないと見えた松田は、短くなった煙草を咥え直して、スマホを取り出しメッセージアプリを開いた。長年愛用していた古い携帯電話は回線のサービスが終了するとのことで、スマホを二台購入した。松田が簡単な短文を送信すると、萩原の枕の横に置かれているスマホが着信メロディを奏でる。
「松田、お前の力がいる。協力してくれや」
伊達が松田の肩を叩いて喫煙室を出ると、入れ違いに高木が入ってきた。すれ違いざまに伊達に会釈をした高木は、すぐさま松田に駆け寄る。
「松田さん、現場行きませんか。僕もまだ見てませんから」
昨夜、現場検証に立ち会ったのは伊達と佐藤美和子、そして目暮警部だった。伊達以外、今回の事件から松田に関わらせないような気配がし、なかなか臨場に立ち会うことができなかった。
「お前が運転するならいいぜ」
「もちろんです!」と高木は手に持ったキーホルダーを見せた。
「松田さん、着きましたよ」
高木に揺さぶられて松田は目を覚ました。警視庁から車で移動中に寝たようだが、どうも時間が合わない。せいぜい車で20分程度で到着のはずだが、すでに40分経っていた。
「お前、余計な気を遣うな」
「すみません、松田さんあんまり眠れていないようなので……、でも、僕の運転で眠ってくれたから嬉しいな~なんて、あはは」
無言の車中に観念した高木は「すみません」と小さく謝った。
「たしかに、お前の運転は眠れた」
「伊達さんに仕込まれましたから」
その伊達を仕込んだのは、元車屋の息子だがな。そう思いながら、目覚めの缶コーヒーを飲んで車を出た。
現場は閑静な住宅街にあり、古い木造の家が並んでいた。東京もまだこんな場所があったか、などと感慨にふけりつつ現場となる家に足を踏み入れる。門に貼られた立入禁止テープをくぐると、手入れのされていない生い茂った雑草が足に絡みついた。昔はきちんと手入れされていたであろう柿の木やみかんの木が剪定もされずに伸び放題だ。草むらの中には、錆びて使えなくなった竿や脚立、カビたバケツや雑巾も放置されていた。
玄関の引き戸を開けると、生臭い腐臭がまず鼻についた。人間の腐乱した遺体ほどではないが、生ゴミをかき集めたような臭いだ。その例えは間違っておらず、玄関から廊下、リビングにいたるまでたくさんのゴミ袋、そして袋からはみ出した生ゴミや弁当箱の空箱が散乱していた。トイレも長期に渡って清掃しておらず、筆舌に尽くしがたい悲惨さであった。
後ろから続く高木はこのぐらいの腐臭ならば慣れているはずだが、家主の状況を鑑みて顔をしかめていた。
「寝たきりの方を介護するのは、僕らの想像を絶する大変さがあるのでしょうね」
「特に介護する方も年寄りだからな……。この惨状を見るに鬱病などの精神疾患か、もしかすると認知症も発症しているかもしれねぇ」
「そういえば、取り調べでも会話がうまくできないと言っていました」
リビングと思われる場所に介護用ベッドが置かれていた。ベッド周辺には介護用オムツが詰められたゴミ袋が山積みになり、ハエや小さな虫がたかっていた。ベッドのすぐ脇には庭に出られる大きな窓があり、外には朽ちた物干し台があることから、本来はこの窓から庭に出て洗濯物を干していたのだろう。
「庭の足跡は採取したんだろうな?」
「それが、雑草がびっしりと土に根を張っており、足跡がつきにくいそうで」
「日本警察鑑識技術の敗北じゃねえか。おい、お前ここに寝ろ」
「ここって、ここですか」と高木は恐る恐る介護ベッドを指したが、松田は返事もせずに玄関から出て庭に回り込んだ。窓を開けろとジェスチャーをし、高木は仕方なくベッドに寝そべり窓を開けた。
「お前、でけぇな」
「松田さんとあまり変わらないと自負しておりますが」
「被害者の身長と体重は」
「二ヶ月前の医師による診断では、身長が145センチ、体重は37キロだったと」
「小せぇな。ちょっと大きな犬ぐらいか」
「その例えは不謹慎ですよ松田さん。でも、ただでさえ高齢者は食が細くなって低栄養状態になりがちですからね。寝たきりな上に、このような生活状況だと特に痩せ細るのかもしれません」
「しかも、脂肪も筋肉もねぇ。からっからに乾いた肉体だ。さぞ燃えやすいだろうよ」
「松田さん、言い方が」
「別に死者を侮辱しているわけじゃねぇ。これはちゃんとした推理だ」
「それは、どのような推理なんです」
「車で話す。こんなとこに長居したら臭いがついちまう」
お前の女はこれぐらいで呆れることはなさそうだが、と言いながら、さっさと出ていってしまった松田の背中を見ながら、高木は苦笑するしかなかった。
ここ最近はよくくだらない冗談も言うようになった。以前は、もっと寡黙で誰も寄せ付けない雰囲気があった松田だが、少なくとも伊達や高木には時折だが緩んだ表情を見せることも増えた。少しずつだが信頼されるようになったのかもしれない、そう高木は自惚れたくなってしまった。
車に戻るなり「捜査資料が読みてぇが、その前にメシにしようや」との松田の提案により、現場近くの中華屋で昼飯をとることになった。松田はラーメンカレーセットを、高木はラーメン餃子チャーハンセットを注文する。料理を運んできた女将さんに、松田は胸ポケットから取り出した沢木和俊の写真を見せた。
「あら、沢木さんじゃないの。最近顔見ないけどね」
「知っているんですか」と、餃子皿を受け取りながら高木が聞いた。
「ええ、昔はよく来てくれていたんですけど、いつからかさっぱり来なくなって。まあ年齢も年齢だし、うちみたいな油っこい食べ物はもう無理なのかもねえ」
「どんな方でした」
「まあ、いいも悪くも普通の人よ。常連さんはどんな個性がない人でも覚えるのが私のモットーだからね」
そこまで言って、女将は入店してきた客に「いらっしゃい」と駆け寄った。
事件関係者に対して「普通の人」「いい人だった」などは珍しくもない。その一見、普通の人が重大な事件を引き起こす。人が人の命を奪うということは、遠くにあり身近な犯罪でもあるということなのだろう。
「僕は松田さんが機動隊で活躍されてる頃からいろんな殺人事件を追っていますが」
「あ?」
「この事件、解決しても後味が悪くなりそうです」
高木は餃子をつまんで「この餃子は上手いですが」と言った。
「つまんね、2点」
「低いですね」
「まあ、でも、そうだな。俺もそんな気がするよ」
なんの進展もなく三件目の事件が起きたせいか、もしくは伊達に肩を叩かれたからなのか、ようやく真剣に捜査資料に目を通していたときだった。スマホに着信があったため、一旦席を離れて廊下に出てから通話ボタンを押した。
「あ、陣平くんね」と声の主は、萩原の母であった。
「萩に、なにかありましたか」
「電話じゃなくて会って話したいのよ。時間あるかしら」
陣平くんにもちゃんと伝えておきたくて、と電話越しに聞こえる声に抑揚がない。捜査で隠していた不安が浮上し、松田は「すぐ行きます」と電話を切るなり廊下を駆け出した。