大雪

 

原案・監修:灰島
著者:四ツ屋

「帰りたくなってきたな」

 所内の窓際から外を眺めながら呟いた。数年に一度あるかないかというレベルの大雪で、警報が発令されたと聞いた頃だった。どんよりと暗い空は悪化していくばかりで、こんな状況では出動もままならないだろう。

「今日は訓練どころじゃねぇしなぁ。この雪じゃ交機も大変だぜ」

 コーヒー片手に呑気にしている萩原もやや暇を持て余しているようで、このまま何も起きねぇといいなーなどとオフィス内をうろついている。暇ならさっさと仕事を片付けてしまえと思うものだが、口には出さない。自分のほうが先に帰りたいなどとのたまっているせいだ。やぶ蛇をつつくような真似だとわかっていた。

「明日は雪かきしねぇとな」

「うわぁ」

 雪の粒も大きく、それが時折吹雪いているものだから真っ白に視界もけぶっている。こんな日に出勤とはご苦労なことだな、と自分のことを棚に上げて眼の前の道で足を滑らせているサラリーマンを眺める。そうまでしてスーツで出勤しなければならないのも大変そうだ。おまけに何やら携帯電話越しに謝っているようで、相手に見えもしないのにぺこぺこと頭を下げている。相手は上司か顧客か、ご苦労さん、と心のなかで労っておいた。

「俺らも帰りはどうなるやらだな」

 念のため着替え一式なども持ってきているが、何事もないことを祈るばかりである。こんな日に爆発物でも見つかろうものなら、キレ散らかした部下たちが犯人を締め上げかねない。

 先程のサラリーマンも御社が憎いことだろうが爆発はさせないでくれよな、と願いながらデスクに戻ろうと振り返ったところで立番からの報告を聞いていた隊長に肩を叩かれた。

「松田、お前今日手が空いてるだろ?」

「はい?」

 嫌な予感がする。こんな日に、わざわざ手が空いているか聞いてくるものか。

「いや、なんか立番やってた矢口がな。近くで猫の鳴き声がするって聞いたらしくてな」

「えぇ……」

「お、萩原もいるなら丁度いいな。見てきてくれ」

 

 コートを着込み、買い置きのホッカイロもポケットに突っ込んで萩原と部下ひとりを連れて外に出た。風はやんでいたが雪は相変わらず降り続いてる。踏み固められていない雪の上を歩く音がするが、それ以外は静かなものだった。雪が、街のざわつきを吸い込んでいた。

「この寒さだと、猫ちゃん心配ですね」

「あぁ。裏手の方つってたな」

 すっかり人通りも減っている道を歩きながら耳をすませる。車もほぼ通らず、いつもの喧騒が嘘のようだ。隊舎を回って裏側へと向かうと、注意深くあたりを観察する。あたりは真っ白に染まっており、側溝すらどこにあるのか見えない状況だ。うっかり足を取られると怪我をしかねない。

「足元気をつけろよ、ハギ」

「んー」

 生返事をしているのは何か考え事をしているためだろう。気になって足を止めると、帽子にも肩にも雪を積もらせた萩原が神妙な顔をした。

「どうした?」

「いや、こんな雪の日に猫って外に出るもんかな、と思って」

 そう言われてみれば。知る限りではほとんどの飼い猫は冷たい雪の上を嫌がる。だとすると、少しでも足元の冷たくない場所に行くだろう。だとすると、屋根のある場所や軒先なんかでひと目につかない場所がありそうではある。

「鳴き声、聞こえます?」

 部下が控えめな声で聞いてくる。ホトケで見つかったら嫌だなぁと思いながら歩いていると、か細い声が聞こえた気がしてぴたりと足を止めた。細く、弱い声がどこからか聞こえている。上だ、と言う萩原の声に見上げると、ひさしの上に猫が二匹、縮こまって鳴いていた。

「あー、また微妙なとこにいやがるな」

「なるほど、たしかにこれは降りられないですね」

 念のためにと網を持ってきたが、正解だったかもしれない。ちょうど隊舎を囲むフェンスの直ぐ側、なんとか届かない距離ではない。フェンスに足をかけて登ると、二匹の猫がこちらに気づいて身構えた。

「ハギ、万が一のこともある。下で構えててくれ」

「おっけ」

 フェンスの直ぐ側で網を持った部下と一緒に萩原がうなずくのを確かめてから、松田は身を乗り出して一匹に手を寄せた。

「よしよし、こっち来い。怖くねぇぞぉ」

 足を引っ掛けたまま手を伸ばすと、指先の匂いを嗅ぎにきた子猫の体を抱き込む。一匹は無事に手元に引き寄せられたが、もう一匹は足を滑らせた。

 危ない、と伸ばした網の中にすっぽりと収まって、無事に確保完了する。

「午後四時ちょうど、被疑者確保だな」

 網の中から出した子猫は萩原の手の中で甲高く鳴いている。松田もコートの袷の間に猫を突っ込むと、フェンスを降りた。無事に二匹とも確保できてよかった。

「うー、さむ。また降り出してきたぞ」

「あ、おれコーヒー買ってきます。ブラックでいいですか?」

 すぐそこの喫茶店で、と指差す部下に頼む、と頼んだ。寒さが限界過ぎて顔が強張っている。いってきます、と小走りに行く部下に転ぶなよと声をかけた。

「猫ちゃんも寒いよなぁ」

 萩原はコートの大きいポケットにすっぽりと入れてやると、顔だけ出してうにゃうにゃ鳴くのをあやしている。手袋を外して抱いてやるとたしかに冷えていた。自分の手も冷えているからあまり暖かくはならないだろう。尻ポケットに突っ込んでいたカイロをハンカチに包んで一緒に入れてやると静かになった。ぷすぅ、と小さく寝息を立てているのが聞こえて眠ったのだなと安堵した。コートの袷から顔を出して、呑気に眠っている。

「平和な出動で良かったな、じんぺーちゃん」

「無事で良かったな、こいつら」

 胸元のふわふわあたたかい生き物を落とさないようにしっかりとボタンをかけてやる。まだまだ雪は降り続いていて、夕方にはもっと冷え込むだろう。そうなる前に救助できてよかった。

「戻ったらアレだな、ミルクとタオル用意してやんねぇとな」

「随分人懐っこいなこいつら。警戒心のカケラもないな」

 萩原が保護した方はコートのポケットから顔を覗かせている。戯れに顎の下をくすぐる指先にじゃれついて、ゴロゴロと喉を鳴らしているようだ。

「里親のポスター作ってもらうか」

「引き取り手がちゃんと見つかるといいなぁ」

 なー、と猫に向かって話しかけているのを見ると、基本的に生き物が好きなんだよな、と松田は思案する。犬にも猫にも懐っこく話しかけているし、懐かれてもいる。隊舎に戻りながら、相棒が子猫をあやしているのを微笑ましく見ていた。

 隊舎へ戻る道すがら、先程のサラリーマンが先ほどと逆方向に歩いてくる。目の下には隈がくっきりと出来上がっていて疲れ切っている様子だが、また電話しているようですれ違いざまに声が聞こえた。

「あぁ、はい、申し訳ありません、はい、ではこのまま直帰いたしますぅ……」

 弱々しい声音で何度も謝る声に思わず振り返ると、小さく丸まった背中に内心で安堵する。こんな日くらい休めるものなら休んだらいい。バチは当たらないだろう。見知らぬサラリーマンが事故なく帰れることを願いながら、コーヒーを啜った。

「ポアロで買ってきたのか。こんな日なのに営業してたんだな」

 気になって呟くと、部下が何の気なしに答えた。

「あぁ、いつものお姉さんはいなかったですけどね」

 噂のイケメン店員がワンオペしてましたよ。そう言われてコーヒーを吹きそうになった。こんな日に何をやってんだアイツは、と思うがお陰様で身体が温まっているだけに文句も言いづらい。神妙な顔をしていると、萩原も苦笑交じりにしていた。同じことを考えているのだろう。

「やれやれ、仕事熱心なこった」

 ため息交じりに零すと、胸元にいる子猫がミャァと小さく鳴いた。寝言だろう、まだ目は閉じたまま耳だけが周囲の音を拾うように動いている。気の抜けた寝顔に表情が和らぐ。

 慣れないオフィスの中で子猫たちが運動会を始めることも思い至らず、つかの間の平和な時間だった。

 

 隊舎に戻ると、子猫たちはすっかり目が覚めてしまったのだろう。腹が減ったと鳴いてはミルクを飲み、物珍しいオフィスの中であちこち走り回っている。書類をぐしゃぐしゃにされないようにとデスクの上を片付けていると、今回の元凶とも言うべき上司が顔を出した。

「おう、おかえり。お疲れさん」

 足元に走り寄ってきた子猫二匹たちを踏まないようにしながら冷めたコーヒーを飲んでいる松田にコンビニ袋を差し出してくる。

「差し入れやるよ。寒かっただろ」

「肉まんだ、やったー!」

 隣から顔を覗かせた萩原がお腹すいたーとニコニコ笑っている。その向こうでコートを乾かしている部下を呼ぶと、松田は残った一つを手に取った。最後の肉まんにかぶり付くと、松田の膝を経由してデスクに上がってきた一匹が興味深いといった様子でビニール袋の中に顔を突っ込んでいる。

 最後の一口をくちに放り込んで、松田はおもむろにビニール袋を持ち上げた。子猫の重みでビニール袋ががさりと音を立てた。袋の口から顔を出して、くりくりの目で二人を見上げている姿の愛らしいこと。萩原はニヤニヤしながら鼻先をつついている。

「隊長、肉まんのお礼にコイツ、おすそ分けしましょうか」

「生憎とうちはペット禁止のマンションだぞ」

 残念だな、と言い残して去っていくのを見送って、松田はメェメェと甲高い声で鳴く子猫を見下ろした。張り紙でも作って里親募集するしかねぇなぁと言いながら、結局は見つかるまで一番可愛がっていたのは松田本人だった。