警察学校時代「蚊」

赤く膨れている虫刺されの痕を、誰よりも先に見つけたのは松田だった。
長く伸ばした襟足の隙間から、ぽつっと小さな膨らみが覗く。痒みが引いていないのか、たまに指先で掻いているため、さらに赤みが増してゆく。冷房がさほど効かない教室内は、人の密集した体温も相まってじんわりと温度が高い。うっすらと汗ばんだうなじに張り付いた髪の毛を掻き分ける指先は、痒みの原因を探り当てて指先で擦っている。
松田が「あ」と思ったときにはすでに遅く、掻きすぎた膨らみに傷がついてしまい、血が滲んでいた。
壇上で教官が警察官職務執行法の構成について説明していたが、いまや松田の耳には届かず、校庭で喚く蝉の鳴き声と、血と汗が付着した虫刺されだけが松田の時間を動かしていた。

「萩、あんまり掻くな」
放課後、教室で居残り日誌を書く萩原の背中に向けて松田は言った。仄かな西日が窓から射し込み、二人だけの影を床に映し出していた。萩原の「え?」という声が、いつも以上に教室内に響く。
「掻きすぎだ。血が出てんぜ」
振り返った萩原は松田の忠告に驚いた顔を見せ、探り当てた虫刺されの痕を撫でた指先を血がついているのか確認した。
「うわ、ほんとだ。やけに痒いんだが場所が場所だけに痒み止めつけらんなくて」
「言えばつけてやんのに」
「気がついたのさっきだしな。しかし、こんだけ傷ついちまったら痒み止めもつけらんねぇ」
総じて、痒み止めは傷口にはかなり沁みる。傷口の痒みを抑える塗り薬もあるにはあるが、おそらく萩原は常備などしていないだろう。医務室ならば、似たような薬はあるかもしれないが、たかが虫刺されで医務室まで行くこともない。
「まあ、ほっといたらそのうち治るだろ」
そう言って、萩原は軽く指先でうなじを掻いてから、再び日誌に向き直った。そして松田も、髪の毛が張り付く虫刺されを再び眺めることになった。
この座席は目に毒だ。
松田は幾度なく、萩原の真後ろに自分の席があることを呪った。名前の順で言うならば、萩原以外に「は行」の名字がいない場合、高確率で次にくるのは松田だった。たまに樋口や深本などが挟まることもあったが、少なくとも小学校から数えて7回は萩原と連番になったことがある。その度に、松田は萩原の真後ろに位置する座席を呪った。
背後からでも、萩原の感情を読み取ってしまえる。
この問題わからねぇんだな。
今なにも聞いてねぇな。
美人な先生のこと気になってんな。
隠れて携帯見てんな。
寒くて仕方ないんだな。
悲しいことがあったが我慢してるんだな。
何年も、背中から萩原の人生を覗き見し、喜怒哀楽を感じ取ってきた。しかし、常に自分の後ろにいた松田の感情を、萩原は知ることはないだろう。
側でバカやって、楽しく過ごせたらいいと松田は諦念にも似た落とし所を見つけていたせいで特に知られたいとも思わず、伝えることもせずにいたが、赤くなって腫れた膨らみから垂れる血を見てからは、なぜか身体の芯からぼこぼこと湧き上がる好奇心と情熱を感じた。
「萩、まだ血が出てんぞ」
「んん、ほっときゃ止まるって」
それは夕立のように、松田の心に降り注ぐ。
これを食べたらどうなるのだろう、という疑問が。
夕立のように、突然に、ざっと降り注ぐ。
いや、雨雲はずっと前から空を漂っていたはずだ。
ただ、近くに来なかっただけで。
立ち上がると、手を伸ばして萩原の襟足をかき上げた。普段から濃いスキンシップをしているせいか、これぐらいで萩原は動じることなく触られたことを無視して日誌に集中している。それをいいことに、松田は丁寧にうなじから髪の毛を取り除くと、虫刺されの痕を間近で眺めた。
そして、そっと舌先で触れた。
一瞬、萩原はびくりと身体を震わせたが、抵抗することなく大人しくしている。払いのけることもせず、怒っている気配もない。日誌に走らせていたペンは止まり、明らかに背後に意識が向いていた。だが、萩原は何も言わなかった。
松田は舌先で軽く舐めてから、やがて唇をつけて強く吸った。血と汗と、皮膚の味がした。昔、萩原が怪我をしたときに傷口を舐めたことがあったが、お互いに衛生上よくないと怒られたことがあった。萩原の血の味を知ったのはそのときだった。
汗はどうだろうか。年齢とともに変化してくる汗の香りは記憶にあるが、舐めたことはないはずだ。淡いしょっぱさの中に、髪の毛から漂うシャンプーの香りが混じる。
これはとても、癖になりそうな……
血を絞り出すように吸い上げ、軽く噛んだ。薄い皮膚に覆われた筋肉の弾力が、歯を跳ね返す。舐めて、吸うを繰り返し、名残惜しそうに離れると、血は止まっていたが虫刺されの痕はさらに赤みを増していた。
深い呼吸を何度かして、松田は椅子に座り萩原の背中を眺める。
萩原はそっとうなじに触れると、唾液で濡れた箇所を指先でなぞった。
「あのさ」
うなじだけでなく、耳まで赤く染めた萩原はゆっくりと振り返ると、困ったように、呆れたように笑った。
「さすがに、キスよりも先に首吸われたの初めてなんだが」
「そうか? なら、記憶に残んだろ」
「蚊に刺される度に思い出すのって、すっげぇ嫌」
「嫌か?」
そんなわけはない、松田は確信していた。もし、本心で嫌ならば、口をつけた瞬間に振り払っていたろう。
「そうだな、これだけで終わるのは、嫌だな」
「そうか」
「上書きしてくれよ」

おそらく、真夏の夕陽が自分たちを染める度に思い出すのだろう。
初めて知った、親友の口の中の味と体温を。