※例の事件のあと、薬指を失った萩原の表現があります。
身体の一部がなくなっても、まだそこに存在するかのような感覚があると聞いたことがある。そこにないはずなのに痛みがあることを、幻肢痛と言ったりするらしい。
入院中は、包帯で巻かれていたせいもあり、よけいに感覚がわからなかった。
俺の左手小指が失くなっていたことに先に気づいたのは松田だった。
医師に聞いたのか、視認して知ったのかはわからないが、目覚めて目の前にいた松田は珍しい表情を浮かべていた。眉間を最大限に引き寄せ、口をへの字に曲げて、でも悲しみでもなく、怒りでもなく、それは、そう、悔しさ。
なんだよ、その顔は。俺は生き残ったのに。
俺はこのとき、松田がそんな顔をする理由がわからなかった。
俺たちの任務は、時にはトラップだらけの精密機器も扱う。それは外科医のような、ピアノの調律師のような、指先の繊細な動きが必要となり、手先の欠損はハンディキャップになる。
それにしても、利き手は死守したし、なくても困らない小指が犠牲になっただけだ。松田の表情とは裏腹に、俺は楽観的に考えていた。このときはまだ、自分の気持ちさえ考えていればよかったからだ。
入院生活に飽きてきた頃、若い女性が訪ねてきた。
清潔感のあるグレーのスーツを着たその人は「東京エピテーゼ工房」と書かれた名刺を出してきた。肉体の欠損部分に装着する義肢のような補綴物を制作する会社らしい。本物そっくりに手足や耳を作っているのをテレビで見たことがある。
警察官が左手の小指がないのは体裁が悪いだろうということで、誰かが連絡をとってくれたらしい。
俺には相談なしで話を進めるあたり、仕組んだ相手はすぐに見当がついたが、まあ許してやろう。
なぜなら女性が可愛かったから。
なぜなら費用はすべて勝手に話を進めた奴らが払うから。
さすがに全額負担は俺の美学に反する、と思っていたら、一割負担ということになったらしい。さすが俺の同期たちである。
エピテーゼは、残ったもう一つの部位を真似て制作するという。残った右手の小指をじっくりと観察し、いろいろな角度から撮影され、色見本を取り出すと肌の色を比較した。肌の色は十人十色なので、色見本はあくまでも参考程度にしているらしいとのこと。
右手の小指の型を取りながら、お姉さんは丁寧に作業手順を説明してくれている。俺には全てを理解することは難しかったが、とにかく「大変なんだな」ということは伝わった。型取りをしている間、歯医者さんと同じ匂いがするな、と感じた。
退院し、小指の傷が完全に塞がった頃、義指は完成した。
義指は驚くほど右手小指と瓜二つで双子みたいだった。もちろん動くことはないが、今にも動き出しそうで、体温すら感じそうだった。
松田ほどではないが、俺もそれなりにモノの製造過程がきになるタイプではあるので、思わずメイキングの映像はあるかと聞いてしまった。そういう質問も多いため、今回も撮影していたという動画を見せてもらった。
「人の肌を再現するには透明感が必要です。そのため、レイヤーごとに色を付けながら樹脂を重ねていきます。そうすることで、透明感のある仕上がりになります」
解説付きのメイキング動画を見ながら「へえ」と何度も感嘆した。
これがプロの仕事かあ、などと感動したものだ。
とんでもないものが俺の小指になったもんだ。
「よろしくな、新しい相棒」
無意識に、そう呼びかけていた。
あれから四年、普通に使用しているとエピテーゼの寿命は三~五年といわれている。現役復帰した俺は機動隊の過酷な訓練をこなし、任務につきつつ何度も死線をくぐってきた。
そんな環境のせいか、義指の傷みも早まってしまう。
外から彩色した血管や毛穴は薄れていき、全体もくたびれてしまった。
「そろそろ替え時かなあ」
とリビングのソファで怠惰に寝転びながら呟いたときだった。
キッチンで食洗機のセッティングをしていた松田が、いつのまにか目の前にいて俺の顔を覗き込んでいた。いきなり松田の顔を間近で見るのは心臓に悪い。
「いつ替えるんだ」
「え?」
「今月か、来月か?」
「え、えーと」
やたらせっつくな、と思いつつ、距離が近い松田を押しのけて上体を起こした俺は、義指をテーブルに置いた。
「そんな急じゃねぇけど、どうしたよ」
松田は隣に座ると、告白でもすんのかってぐらいな真面目な視線をぶつけてきた。告白は四年前に受けてるからもういいよ。
「半年待ってくれねぇか」
「半年? なんで?」
もしかして、これは、家計について心配してるのか、と考えた。
エピテーゼは保険が下りないため、わりと費用はかかる。以前は同期たちのカンパでなんとかなったが、今回は全額自費だ。
同棲している今となっては財布が同じなだけに急な支出が気になるのだろう。俺よりかはマメな奴だ。ありえる。
「俺の独身時代に貯めてた貯金使うし、気にすんなよ」
そう言うと、松田は「は?」という面白い顔をした。面白いから写真に撮りたい。こういう顔のときは、俺の返答が見当違いなときだ。
「いや、半年待てっつーからよ、費用でも貯める期間なのかと思うじゃねぇか」
「まあそうか、いや、そうじゃねえ、費用は心配すんな」
「うん。うん?」
「もう少し時間が欲しい。せめて三ヶ月ぐらい」
理由は言えないが、何か事情がある。
という感じだろう。
こうなると、この頑固者はテコでも動かないし、問いただすだけ時間の無駄というものである。
三ヶ月ないし、半年ぐらいなら待つことはできる。
が、このまま黙って承服するのも癪だ。
「待ってやってもいいけどな」
人差し指でちょいちょいと呼ぶと、松田は顔を近づけてくる。心の準備があれば、この顔が近寄ってきても余裕だ。
「今日はひさびさに二人とも休みだろ。サービスしてくれよ」
松田が本庁の捜査一課に配属されてから2週間、バスジャックやらなんやらと多忙が極まっていた松田が、ようやく休暇が取れたのが今日。デートも案に浮かんだが、どちらかといえば、今日は松田を甘やかしたい気分だ。
ただ、素直に甘やかしてくれないところが松田が松田たるところなので、「サービスするぞ」よりも「してくれよ」のほうが松田は知らずに甘えだすのだ。
キスをし、抱きしめてモジャ頭に鼻を埋める。背中を撫でると、松田も俺の首元に顔を突っ込んできた。猫かよ。かわいい。
かっこつけな松田、俺にしかこうやって甘えられないんだよな、って思いながら後頭部をわしゃわしゃする。この男を独占して四年、それなりに幸せではある。
小指がない状態でのEOD対応は慣れてしまえばどうってことはない。もし失ったのが右手小指だったらもう少し不自由だったかもしれないな、と思いつつ「小指がないのにすげえスキル」と他の隊員たちの士気上昇にも使われているみたいだし、まあ、これはこれでいいか、と呑気なことを考えていると、どうしてか入院中の、あの松田の顔を思い出してしまう。
今ならわかる。
あいつは俺の何かが一部でも欠けることが我慢ならないのだ。
あの頃はまだ付き合ってなかったからわからなかったが。
朝の訓練を終え、喫煙室で一服しながらそんなことを考えていると、隊長がひょこっと入ってくるなり煙草に火を付けた。いつもは気を遣わせるからと滅多に喫煙室に来ないのだが、これは自分に用があるなと予測する。
予想通り、隊長は他愛もない雑談のあと、「お前、そろそろ心の準備しておけよ」と言った。
「それは内定ってやつですか」
「いや、そこまでかしこまったモンじゃねえ。俺の勘だ」
「そういって、松田のときも隊長の勘から数週間で内定出たっすよね」
「馬鹿野郎、今回は本当に俺の予想だ。まあ、お前を欲しがってる奴は山ほどいるんだ。ちょっとは耳に入るぐらいにはな」
「はあ、光栄なことです」
俺はそう言いながら、無意識に小指をいじっていた。
白バイは小指も使えなければ運転は難しい。プライベートで趣味の範囲でバイクに乗る分には問題ないが、俺のような指が欠けているサツは、まず交機に配属されないだろう。ただでさえ人気の部署だ。
姉が他県の白バイに配属されたとき、もしかすると、いつかは箱根駅伝で共演するかも、と思っていたことがあっただけに、少し落ち込みはする。
が、内勤に回されないだけマシだった。内勤は主に事務や経理、広報のしごとが多いが、定時に帰れるし、年末年始の連休もとれることから、人気だったりする。
だが、俺には向いていない。
松田もそうだ。刑事も書類仕事がメインというが、捜査本部が立ち上がればずっと泊まり込みの捜査が始まる。体力もあるし記憶力も良い。ぶっきらぼうに見えて、人の機微にも聡いときもある。お前ならできると言ったのは、いつだったか。
俺はどうだろうか。
隊長は引手数多と言ってくれて入るが、それは俺の能力というより顔が広いだけでは。
松田はなんと言うだろうか。
「今日も遅くなる、先に寝ていてくれ」
「おう、気をつけてな」
というやりとりが、三ヶ月ほど続いた。
機動隊はイベントや緊急出動がなければ基本的に定時にあがれるため、必然的に家事は俺がやっていた。「しばらく夕飯はいらねえ」というお達しなので、適当に飯を済ませていると、だいたい先述した内容の電話がかかってくる。電話に出られないときは、文字でメッセージが送られてきた。会えないが、できるだけ俺の声が聞きたいという松田の情が見えるため、電話そのものに悪い気はしない。
が、この三ヶ月、まともに顔を合わせていないのは、さすがに松田不足で欲求不満が募って仕方ない。
「三ヶ月か、半年か」
半年コースなら、折り返し地点だ。そして大規模な捜査本部が立ち上がれば、さらに松田は多忙を極め、家にすら帰ってこられなくなるだろう。
想像しただけで頭がおかしくなりそうだ。
俺はシャワーを浴びたあと、ベッドに転がって松田がいつも寝ている場所にうつ伏せになった。枕から、松田の匂いがする。
淋しい。
匂いを嗅げば、よけいに寂しくなるとわかっていても我慢ができなかった。少しでも松田の存在を感じたい。
遅くに帰ってきた松田にめんどくさい絡みはしたくないと、シャワーを浴びてすぐに眠る。松田のペースを乱したくなかった。
休めるときに、少しでも休んでほしい。
何をしているのかわからないが、一生続くわけでもない。
いずれは、俺のところへ戻ってくるのだ。
そう自分に言い聞かせる一方で、脳にはもう一つの感情が広がっていく。
アホかと。
小学生のときから、さんざ一緒に過ごしてきたくせに、まだ足りないとは。
自分がこんなにも欲深かったと知ったのは、松田に惚れていると自覚してからだ。おそらく、松田もそうなのだろう。俺は小指が欠けた左手を見た。
この指がなくなったとき、俺よりも松田のほうがショックが大きかったことは、あの表情からしてわかる。
あれは同情ではなく、自分が大切にしているものを壊されたときの顔だ。
俺の指なのに、なんであいつのほうが悔しがってんだか。
松田も大概だ。
それが俺には嬉しい。
思い出しては顔がニヤけてしまう。
気分も良くなってきたことだし、このまま寝てしまおうとウトウトし始めたときだった。
玄関で音がした。
セキュリティが強化されている我が家に入ってこられるのは一人しかいない。
俺はベッドから飛び起きて玄関まで走っていった。
「松田!」
「おう」
疲労感はあるものの、どこか満足げな松田が片手を上げてから、汚れた革靴を脱いだ。
どことなく、いつもと雰囲気が明るい方向に違うので、俺も気分があがってしまう。
「おつかれさん、風呂入るか」
いつもならここで「おう」と言って風呂へ一直線だが、今日の松田は「いや、いい」とネクタイを外しながらリビングに移動した。
そしてジャケットも脱がずにソファに座る。松田につられて、俺も隣に座った。
松田は一息つくと、俺に身体を向ける。
「んー、そうだな。忙しくてなかなかかまってやれなくてすまねえ」
「なんだそれ」
「あー、なんかガキみてぇなこと言ったな」
「別に、淋しかったけどよ」
「淋しいって、思ってたのか」
「当たり前だろ」
「そうか」
「おうよ」
「これ」
この会話の流れで説明もなしに無造作に、手のひらサイズの小箱を渡してきた。
とっさに「指輪か?」と思うような箱だった。
「それ作ってて忙しかった」
作った?
指輪を?
手作りの指輪?
じんぺーちゃんが?
ガラにもねえことすんなよなぁ、と思いながら小箱を開けた。
そこには、見覚えのあるものが入っていた。
俺の小指だ。
生まれたときから、ずっと一緒だった、俺の小指がそこにあった。
「これ、作ってたって……」
「先生んとこに通って、教わりながら作った」
「手先は器用だと思っていたが、いや、ええ……、作っちまうか? 俺の指」
「お前の指は、お前より俺のほうが知っている。俺しか作れねぇよ」
「なんだそりゃ」
なんだそりゃ。
どんな自信なんだ。
俺は箱から小指を取り出し、左手につけてみた。
ああ、久しぶりだなという気持ち。
また会えたな、俺の指。
「ほらやっぱりな」と松田は、俺の手を引き寄せて満足そうに笑う。
「俺だから作れた」
エピテーゼ職人のお姉さんが話してくれた作業工程を思い出していた。あの作業を松田がやっていたと思うと、エピテーゼに関しては素人の松田は、きっと何度も失敗を繰り返して、自分が納得のいく俺の指を作っていたのだと。
忙しい合間を縫って、俺も放置して。
バカだろ。
でも
いくら俺の指そっくりでも、動くことはない。
この指でバイクのクラッチを器用に操ることは難しいだろう。
けれど、難しいだけで、できないことはない。
今だって、誰よりも早く、正確にEODの解体をしているじゃないか。
「なあ、松田」
「どうした」
俺が身を寄せると、松田は黙って両手を背中に回した。
どうしようか、今、とてもこいつが愛おしい。
この指と、松田の愛があれば、何でもできる気がした。
愛って、偉大だな。