希む朝 - 2/3

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遮光カーテンが開かれた窓から射し込んだ夕陽が病室を赤く染めている中で、松田は椅子に座り萩原の顔を眺めていた。時折、体温を確かめるように頬を撫でる。現役の頃に鍛えられた筋肉もすでに衰えてはいるが、点滴を摂取しているために栄養不足になることはない。それでも、服のサイズはもう合わなくなっているだろう。
それも、起きたらの話になるが。
「どうしても陣平くんにも話しておきたくて」という前置きで呼び出された萩原の母から聞かされた内容を反芻した。
端的に言えば、いつ脳死になってもおかしくない状況なのだという。まだ決まったわけではないが、覚悟はしたほうがいいと医者から言われたそうだった。
萩原の運転免許証の裏には、臓器提供意思表示にサインが書かれている。もし、脳死にでもなり、家族の反対がなければ臓器移植されることになる。肉体的には健康体の臓器だ。さぞ、元気なことだろう。
誰にもやりたくない。松田は素直に思う。誰かの肉体に、萩原のものが入ってると思うだけでやりきれない。それならば、自分の内蔵を捨てて、萩原の臓器を移植すればいいのではないか。いや、血液型も違う、きっと、適合しない。
いくら一つになりたいと甘い歌詞のようなことを願っても、他人の肉体は他人のものであり一つになることはない。だからこそ、心を一つにすることで満たされるものがある。そのためには、たくさん会話して、多くの時間を共有することで精神的な繋がりを生みださなければならない。眠っているだけの相手との繋がりなどどのように生み出せばいいのか、松田にはわからなかった。
爆発に巻き込まれる直前に寄越した萩原からの電話を思い出す。
「例の場所で……、話したいことがある」
話したいことは何だったのか。それを知る前に、萩原は爆弾犯が仕掛けた爆弾に巻き込まれて目覚めぬ人となってしまった。
話したいこととは、松田が萩原に対して抱いている相棒以上の感情のことだったのだろうか。ひたすら隠してきた感情だったが、聡い男だ、気がついていてもおかしくはない。
「お前とはいいダチでいたんだよ」
何度も何度も、リフレインしてきた松田の想像上の萩原のセリフだ。女好きの色男が、自分に伝えるセリフなどと勝手に決めつけてしまっている。
「萩原……」
髪の毛に触れると、指先に絡んだ髪の中に白い糸のようなものが混じっていた。毛先は薄いグレーだが、根本にいくほど白く透き通っていく。それは明らかな、白髪だった。
そういえば、自分もつい先日に伊達から白髪があることを指摘され「お互いに歳とったな」などと年寄りくさい会話をしたものだった。
「萩原、お前も歳とってるんだな」
萩原は生きている。生きて、同じ時を刻み、肉体は老化している。
それなのに、脳死などと。
「ばかやろうが。何が脳死だこの野郎。早く起きろ、起きろ、萩……」
萩原の手を握りしめ、自分の額に寄せた。温かい、血の通う指先が額から感じる。
そして何度も祈り続ける。神でも星でもなく、ただ、祈り続ける。

翌日の昼飯後、高木は、捜査本部の自席でおとなしく捜査資料を読み込んでいた松田から、指先でちょいちょいと呼ばれた。松田の代わりに作成していた報告書を放り出して「どうしました」と近寄る。
「なんでわざわざ関西仕様の骨壷だと思う」
「たしかに。たしか、関東だと足から順番に骨を拾い骨壷に納めるのに対し、関西では喉仏を中心にその周囲だけを拾い、残りは所属している宗派の本山か、お墓に埋葬するために骨壷は小さいんでしたっけ。となると、犯人は関西出身者とか」
「もしくは、小さくしなければいけない理由があったか」
さらに、松田はデスクの上に被害者のプロフィール資料を並べた。生前の写真と、骨壷と同封されていた棺桶に入棺されている写真もクリップで挟まれている。
「三人の被害者に共通するものは?」
高木は頭に叩き込んだ資料と眼の前にある資料の情報を慎重に精査した。松田はおそらく、すでになにかに気がついている。それを、あえて高木に気づかせようとしているのだろう。
「寝たきり、被害者とその介護者も高齢者、低栄養が見られる小さな体型、一軒家、でしょうか」
内心緊張しながら答えると「ばかやろう」と資料の束で顔面を叩(はた)かれた。
「お前の目は節穴か。見えねえんなら虫眼鏡でも持ってきてよぉく見ろ」
鼻を擦りながら、デスクの上に並んだ資料に顔を近づける。ふと松田からはっきりと煙草の香りがしたため、ヤニ切れでイライラしているのではないと高木は気づくが、ではそのいらだちの原因は何なのだと思考が逸れそうになり慌てて軌道修正する。
松田さんは「よく見ろ」と言った。「よく読め」ではなく「よく見ろ」と。となると、文章ではなく写真に手がかりがあるということだ。生前の写真は、仲間とハイキング中だったり、玄関先で撮影されたものだったり、庭の手入れ中だったりと元気な頃の様子が伺える。棺桶の写真の彼らは眠っているのか、このときすでに死亡しているのかさえわからない。個人の顔が見えるように作られた小さな窓から、被害者たちは今にも寝返りを打ちそうだった。
寝返りを打ちそう?
高木は資料から棺桶の写真だけ抜き取り、三枚を並べた。
「なぜ、三人とも顔が斜めに傾いているのでしょう。わりと真上を向いているイメージですが……、もちろん、死後硬直によって斜めを向くこともあるでしょうが、それにしても三人とも同じ傾きですね。あと、棺桶のこの窓が通常より小さい気がします。これでは、顔全体が見えにくいですね」
「どこで製造された棺桶なのか調べは?」
「全国であたっていますが、まだ見つかっていません。特殊な形状なのですぐわかると思ったらしいのですが難航しているようです」
「ペット用棺の専門店をあたれ」
「ペット……、あ、まさか」
もう一度、高木は写真を見比べた。
低栄養による小さな身体を押し込めるなら、大型犬の棺桶ならば入るはずだ。だが、それでも少し窮屈だったのだろう。屈葬のように脚を曲げて入れられているため、顔が真上ではなく、傾いているのだ。
「あ、それなら、もしかして火葬したのはペット用の移動火葬車という可能性もあるのでは」
「なんだそりゃ」
サングラスの奥で顔をしかめる松田を見て、高木はやや興奮気味に答えた。
「友人の家のセントバーナードが寿命で死んでしまったのですが、身体が大きいので火葬場まで運ぶのが大変なんです。そういうとき、小型の火葬炉を積んだ火葬車というトラックが家の前で来てくれたそうなんです」
「なるほどな。だが、小さな火葬炉だと火力が足りねえから燃やす時間がかかるだろ。それに煙はどうする。そんなもん、近所に停まっていたら、ジドリ(地取り調査)でわかんだろ」
「犬種や犬の成長具合にもよりますが、大型犬で約2時間程度だったそうです。それに近所から苦情が来ないように煙や臭いがしない火葬車もあるようです」
「……、都内にある、その、なんだ、ペットを燃やす車ってのはどんだけあるんだ」
「詳細はわかりませんが、一時期悪徳業者が多いと噂になり、かなりの業者が倒産したようですから」
「大型犬を燃やせる車を持っている業者を洗い出せ」
「はい!」
松田は高木の背中を二度叩き、そして立ち上がって捜査本部を出ていった。おそらくまた煙草を吸いに行ったのだろう。
高木は小さくガッツポーズをとり、捜査地区を割り出している伊達に走り寄った。

子どものというのは、日頃の鬱憤を晴らすためなら理屈などどうでもいいのだ、というのは小学生の頃に散々味わった。
「やっぱりボクサーっていうのは」
「前から危ない人だと」
子どもが言う悪態の中には、その周囲の大人が吹聴しているのを真似しているだけのこともある。言っている本人はその言葉の殺傷力など想像できないのだろう。本物のナイフと違い、言葉の凶器は幼い子どもすら手にし、誰かに刃を向けることができる。さぞかし、楽しいオモチャだったのだろう。
そんなくだらないオモチャに興味を持たない奴がいた。
「じんぺーちゃん、最近俺のこと無視してね?」
下校時刻、下駄箱の前で萩原少年は松田の前に立ちはだかった。少し怒っているのか仁王立ちだ。
「別に」
「別に、なんだそれ。だっせー」
「うるせーよ、どけよ」
萩原を体当たり気味に押しのけて、松田は歩き出した。
すぐ後ろから、萩原が追ってくる気配がした。
「なあ、松田」
松田は振り返らずに、ずんずんと夕陽の中を進んでいく。
「なあなあ、松田」
こいつはなんで自分と一緒にいようとするのか。萩原は対人関係が上手い子どもで、博愛主義、誰とでも仲良くできるタイプだった。そのため、友人なんてものは学年を超えて存在するような奴だ。わざわざ、学校でハブられている奴につきまとう理由がない。
自分といたら、こいつもどうなるかわからない。
松田は早歩きから、全速力で走り始めた。
「あ、このやろう!」
すぐさま萩原も走って追いかけてくる。
これがなかなか、萩原も速かった。
そういえば、運動会ではいつもクラス代表リレーに松田と並んで選ばれ、二強などと呼ばれたものだ。さらに、でかいガスタンクを積んでいる車のようにタフであった。
二人の距離は縮まることも伸びることもなく、同じ間隔を保ったまま走った。
決められた下校順路を無視して、電車の高架下をくぐり、やがて川の土手に登った。大きな川の水面が夕陽に照らされ、スパンコールのように煌めいていた。
さすがにランドセルを背負いながらの長距離に二人とも限界が近づき、速度が緩んでくる。
「なあ、なあ……って、松田」
「んだよ」
「あのさ、アイス食わね? そこに50円で売ってくれるアイス屋があんだよ」
松田が立ち止まると、隣に並んではずんだ息を整えた萩原が言った。
「アイスたって、あれだろ、しゃりしゃりしたやつ」
「そうそう、食おうぜ」
そうは言っても今は下校時刻である。当たり前だが学校に金銭類を持ってくるのは校則違反だ。それなのに、萩原はポケットから100円玉を取り出して、アイスを二本買い、一本を松田に渡した。
川の土手に座りながら、松田はアイスを食べた。アイスクリームというには程遠い、脂肪分の少ないあっさりしたかき氷のようなアイスだった。
それでも、松田にとっては久しぶりに口にするアイスだった。
萩原の家は車の整備屋で、支社を何個か持っているぐらいに裕福な経済状況だった。整備士である父親の腕も良かったのだろう。「萩原さんじゃないとだめです」と言って、わざわざ遠方から車を持ち込んでくる常連の姿を松田も何度か見かけたことがあった。
そんな萩原が、こんな安っぽいアイスの存在を知っていることが不思議だった。
「この前、女の子とこのアイス買いに来たらさ、『萩原くん、家に帰るまでだめなんだよ』って怒られちゃったよ。じんぺーちゃんなら怒らないだろうなって思って」
「……一人で食えばいいじゃねえか」
「ええ~、一人で食べてもつまんないって。誰かと一緒だと、美味しいものがもっと美味しくなんだよ」
「……わかんねぇ」
それから、萩原はなにかと松田と共に行動するようになり、気がつけば、一人で食べていたアイスの味を忘れてしまっていた。

高木が買ってきたアイスクリームを強制的に奪って食べていると、当時のことをふと思い出した。あのとき萩原が自分と一緒にいたのか何度考えても答えが出ていない。
「松田さんが甘いもの食べるって意外ですね」
「人を見た目で判断するなって伊達から教わらなかったのかよ」
「松田さんはわりと見た目通りというか」
「くだらねーこと言ってねぇで、とっとと運転しろ」
コンビニの駐車場を出て静かに路上を滑り出したスカイラインR34の中で、これから向かう移動ペット火葬業者の概要を高木は説明した。
都内でセントバーナード並の45kgを超える超大型犬を火葬できる車を持つのは一社しかなかった。通常の火葬車はライトバンが多いが、この業者は全国でも数台しかないという大型火葬車を所持しているという。
辿り着いた都内郊外にある東都ペット葬儀社の敷地は広く、霊園も併設しているほどだった。あたりに民家は少なく、畑や田んぼが広がっている。
駐車場にはたしかに、大型火葬車と見られるトラックが一台停まっていた。
「あれですかね」
そう高木が言うまもなく、松田はトラックに近づき火葬炉が積まれている荷台を開けようとしたが、鍵が掛けられていた。それを胸ポケットから取り出した工具で開けようとしたものだから、高木は慌てて松田とトラックの間に入って止めた。
「捜査令状もないのにまずいですって」
「ああ? だったらてめぇがなんとかしろ」
「まずは話を聞きましょうよ」
まあまあ、となだめつつ事務所入口へと松田の背を押した。インターホーンがあったので押してみるが反応がない。
「不在なんでしょうか。僕ちょっと辺りを見てきますね」と2、3歩歩いたところで高木は振り返り「絶対に勝手にいろんなところ開けちゃだめですよ」と釘を差していった。
松田はやれやれとため息をつくと、空を見上げた。都心部にいると見られないほどの空の広さだ。青い空に、真っ白な雲が浮かんでいる。時計を見て、今頃は窓を開けて外の空気を病室に入れている頃だな、と思う。
青い空に上るように、白く薄い筋が伸びていた。
松田は事務所の横の細い道を進む。白い筋は、その先の建物が伸びているようだった。
事務所の裏側に、雨避けの屋根が横に伸び、火葬炉と思われる建造物が三棟並んでいた。その一つの前に、黒服をまとった人物が立っている。
「お前、ここのモンか?」
黒服の男は振り返ると、松田の示した警察手帳を見て「ああ、刑事さんでしたか。どうしましたか」と抑揚のない声で言った。
髪はきれいに七三に分けられ、肌は色白く、細縁の眼鏡の奥には細い目があった。クラスに居たら仲良く慣れないタイプだな、と松田は直感的に思う。
「あんたはここの従業員か」
「ええ、下山弘樹と申します」
「今、なにやってんだ」
目の前の火葬炉の扉は固く閉じられており、高温で燃やされている気配があった。
「今、近所の工場で死んでいたという犬を火葬しております。弊社は市からの依頼も受け付けておりますので」
「でかい犬だったのか」
「それなりに……。運んできてくださった市役所の方も二人がかりでしたね」
「駐車場にでっかいトラックあったろ。あれはどのぐらいの大きさを燃やせるんだ」
「犬であるなら、どのような大きさでも火葬できますよ」
「時間は」
「犬種や、その脂肪の付き具合にもよりますが、およそ2時間ぐらいです」
「あんな小さい火葬炉でも、骨になるまで燃やせるもんなのか」
「そうですね。たまに、火葬の途中で追加料金を支払わなければ生焼けのまま戻す、なんていう悪徳業者もいらっしゃるようですが、弊社はきちんと綺麗なお骨になるまで火葬いたします」
「見せてくれ」
「かまいませんよ」
下山は駐車場に案内すると、上着から鍵を取りだして荷台の扉を開けた。
荷台の中には、ステンレス製の箱が収まっている。上部に引き上げ開閉する扉が重く閉ざされていた。
「けっこうでかいな」
「そうですね。大きな犬種ともなると、体重は50kgを超えるものもありますから」
「人間も入れそうだな」
松田の非常識な呟きに、下山は眉一つ動かさずに笑った。
「もしかして、例の連続殺人事件の捜査でしょうか」
「なぜそう思う」
「たしか、骨壷が残されていたと報道されておりましたので。もしかすると、犯人は火葬場を使ったのかと」
「こいつで人間は燃やせるのか」
松田は荷台に近づくと、火葬炉の扉を引き上げた。金属がこすれる音がして開かれたそこには、ぽっかりと暗闇が存在した。
「さあ、どうでしょうね。燃やしたことがありませんから。でも、もしかすると燃やせるかもしれませんね。入ってみますか?」
突然の下山の提案に、松田はサングラスの奥から睨みつけた。
「笑えねえ冗談だ」
「残念です。なかなか居心地がいいんですよ」
こいつは入ったことがあるのか、と、得体の知れないものを見るように下山の顔を伺った。冗談を言ってるようにも見えるが、この顔は本気だ。
「ところで、ご存知ですか。ペットも年老いると寝たきりになる子もいるんですよ」
「らしいな」
「寝たきりのペットの介護も大変らしいです。私は経験がなく、見聞きしただけですが」
「俺よりも、そういう現場に居合わせることは多いだろう」
「そうですね。やはり介護疲れになるお飼い主もいらっしゃいます。たとえば、こんなことがありました。『大きな犬を飼っている。燃やして欲しい』と連絡がございました。私が現場に行くと、グレートデンという超大型犬が玄関先に横たわっていました。棺に入れようと持ち上げたところ、その子はまだ温かかったんです。死んでから間もないのかなと思っていましたら、まだ息がある。そのことを飼い主に伝えると『大丈夫です。その子はもう死んでいます。だから燃やしてください』と言うんです」
生ぬるい風が吹き抜けた。火葬炉の闇の奥から、ごおっと咆哮の声が聞こえた気がしたが、風の音だと理解していても不気味だった。
「それで、あんたは燃やしたのか」
「まさか。燃やせませんよ。生きていますから」
でも、と下山は続ける。
「お断りしたときの飼い主の顔は絶望に歪んでおられました。ペットでさえこれだけ疲労なされるということは、人間の介護など比べ物にならないぐらい介護者の精神は疲れ切っているのでしょうね」
「疲れていないと言えば嘘になる。それでも生きている人間を殺せば、殺人だ」
「まったくそのとおりです」
でも、と再び下山は言葉を重ねた。
「本人はどうなのでしょうね。介護者よりも、もっと深い深い悲しみや絶望を抱いているかもしれません。ただただ、延命処置を行われ、なにもできず、ベッドの上で眠るだけの日々。彼らの救いとはなんでしょうか。もしかすると、彼らの救いとは、死ではないかと」
松田の拳が下山の胸ぐらを捕まえた。鋭い眼光が、サングラス越しに下山を突き刺す。
恐ろしい殺意にも似た憎悪に、下山はたじろいだ。
「申し訳ございません。出過ぎたことを申しました。……あなたも、介護者のお一人なのですね」
「二度とそんなくだらねえこと言うんじゃねえ」
投げ捨てるように下山の胸ぐらを離した松田は「邪魔したな」と言った。
「もし、なにかわかりましたら、私からもご連絡いたします」
下山は、後からやってきた高木から名刺をもらい、そう言って二人を見送った。

米花警察署の屋上で、松田は煙草を片手にスマホを眺めていた。もう数分もなんのメッセージも思いつかないまま同じ体勢でいた。いつもならば、どんなときでも萩原に語りかける言葉を持っているはずなのに、今は空虚だ。そんな自分に失望していた。
「こんなところにいたのか。ショカツが弁当くばっていたぜ」
伊達が語りかけるも、松田は反応しなかった。得意の早打ちもなく、スマホを眺めている松田に怪訝な思いを寄せた伊達は、松田の隣の柵に身体を預けた。
「なんだよ、そんなしみったれた顔しやがって。お前が」
「……うるせーよ」
「なんならその顔を萩原に送ってやろうか。さすがにあいつでも、お前のそんな顔見たことねえだろ」
「……ねえよ」
送ることを諦めた松田はスマホをポケットにしまい、短くなった煙草ももみ消した。
日が沈みかけた空は、黄昏時期となって闇が生まれようとしていた。まだ淡い陽の光があるとはいえ、この仄暗さでも松田はサングラスを外そうとはしない。
「あいつの、辛さを考えてた」
「萩原のか」
「ああ……。あいつ、白髪が生えていたんだ。どんどん歳とりやがってさ」
「そうだな。生きているからな」
「肉体は生きているから、老化する。このまま、あと、何十年も目を覚まさないならって……」
「松田」
「たとえ、二十年、三十年後に目を覚ましたら? あいつはどう思うのかって……。22歳から、次に目を覚ましたら70や80のじじいになってるって知ったら? 失われた時間を取り戻すにはもう、遅いと知ったら……。そんな絶望を感じる前に、死んだほうが幸せなんじゃねえかって、考えがよぎっちまった」
「そう考えてしまう気持ちはわからんでもない。でもな、萩原は生きたいと願っているんだろう。だから、奇跡的に命をとりとめた」
「どうかな。それも怪しいな」
「どういうことだ」
松田は萩原の脳がどんどん弱まっていっていることを伝えた。
「なるほどな、それでお前は諦めて弱音を吐いちまってるってことか」
「諦めて、ねえよ」
「だったら、信じるしかないだろう。お前が信じなくて、誰が信じるんだ。お前しかいないだろう」
信じる、信じるとは誰を、何を。
伊達の言葉が、心の空洞を通り抜ける。
萩原を負傷させた爆弾犯は、事件から四年後に執念の捜査によって捕まえた。それまでは復讐心が先行して松田を動かしていたが、爆弾犯が捕まってからは萩原の目覚めだけを心の拠り所として生きている。
復讐心の力強さを味わった後では、信じる心の脆さといったらガラス細工のようだった。少しの亀裂が入れば、たちまち崩れてしまう脆弱さ。
「あいつがいたらか、俺はまともでいられたんだ」
「おい、松田」
伊達はいきなり松田の首根っこを掴むと、ぐいっと顔を寄せた。普段は温和な気配を見せる伊達だが、刑事の顔をする伊達の迫力に松田も圧倒させられる。
「いつからそんな軟弱になったんだ。俺が一から鍛えてやらぁ」
「鍛えるって、は?」
無理やり柔道場に連れてこられた松田は、畳の真ん中に放り投げられた。
「そのサングラスをはずさんと怪我するぞ」
言いながら、伊達も上着を脱ぎ、いつも咥えている爪楊枝を吹き飛ばした。
警察学校時代、伊達と組んで体術で勝ったことがない。松田も機動隊で鍛えに鍛えたとはいえ、伊達の格闘センスは並ではなかった。だからこそ、松田の闘争心が燃え上がる。
「てめぇこそ、新婚生活で緩んでんじゃねえだろうな、あ?」
サングラスを外し、ジャケットを脱ぎネクタイを外す。お互いに時計も外し、上着の上に置いた。

「やはり、機動隊員ってのは並じゃねえな」
畳の上に仰向けになった伊達が、息も絶え絶えに言った。そういう伊達は三勝一敗、松田は最後にかろうじて一本を取ったぐらいだ。
「刑事部で怠けてんのかと思ったら、まだまだ現役かよ」
「当たり前だろう。弱くては子どもたちに教えられんからな」
伊達は休日になると子どもたちに柔道を教えているという。なるほどな、と強さの理由に納得した。
久しぶりに全力で闘争心をぶつけたせいか、自分の中にわだかまっていたガスが抜けた気がした。おかげで思考がクリアになる。
「容疑者を見つけた」
松田のセリフに「なんだと」と伊達は驚きを見せた。
「だが、証拠がねぇ。今はまだ、刑事の勘ってやつだ」
「お前の勘は当たる。俺が保証する。どこのどいつだ」
松田は起き上がると、胡座をかいて伊達に向き直り下山について話した。
「ペット用移動火葬業者か。うまいところ突いたな」
「ああ、だが証拠は何もかも灰になっている。どうしようもねえよ」
伊達も起き上がると、並んで胡座をかき顎に手を当てた。
「ペット用となると、火力は弱いはずだ。もしかすると、小さな骨壷に入るぐらいしか骨が取れなかったとしたら?」
伊達の推理に、松田ははっとする。
「そうか、よく焼けた骨だけ骨壷に入れるのか。残った遺体はあとでじっくり焼いて霊園の共同墓地に埋めりゃいい」
東都ペット葬儀社の敷地内に、ペット用の共同墓地があった。
「ペット用の共同墓地から人骨が出てくるだけでも大問題だ。それだけでも礼状がとれる」
伊達は声を潜めて続けた。
「だが、どうやって共同墓地を掘り返す、かだ」
「そりゃあおめぇ……、掘るしかあるめぇ。俺たちでな」
無断で共同墓地を掘り返せばどうなるか、二人は理解していた。それでも、松田ならやるだろう。伊達は頷いて「なら、俺も行こう」と立ち上がった。
スコップはどうする? 米花警察署の倉庫にあったか。いや持ち出すには総務の許可が必要だ、ホームセンターで買っていこう。などとヒソヒソ話をしながら廊下を歩く。
署を出たところで、高木が車のキーを手にしながら立っていた。
「二人でどこに行くんですか」
「お前にゃ関係ねぇよ」
松田は高木を違法捜査に巻き込みたくはなかった。伊達ならばうまくやり過ごしそうだが、高木は良くも悪くも素直すぎたのだ。手を染めるのは、問題児集団と言われた伊達班だけでいい。
その松田の心を見透かしたのか、高木は強く一歩前に出た。
「たしかに、僕は伊達さんや萩原さんのようにはなれません。でも、それでも、今の松田さんの相棒は俺です!」
松田が黙っていると、伊達がニヤッと笑い「そういや今日はカミさんの誕生日だったわ。ケーキでも買って帰らにゃあなぁ。高木、あとは頼むわ」と、高木の肩を叩いて署に戻っていった。
「松田さん、行きましょう!」
やれやれ誰の影響なんだか……、とため息をつくと、どこからともなく「そりゃお前だろう」という声がした気がした。