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「さて、行くか」
ヘッドライトを装着し、大型のシャベルを担いで松田と高木は東都ペット葬儀社の門を乗り越えた。さすがに誰もいないのか、事務所のある建物の窓はどこも消灯されており、辺りは暗闇に包まれていた。ヘッドライトがなければ何も見えない闇だ。
共同墓地は霊園の一番奥にあった。鎮魂と掘られた台形の碑石の両隣に立派な石塔が建てられ見栄えがいい。昼間なら色とりどりの花も目に入ったことだろう。
碑石の前に石畳が敷き詰められ、その中央に半球の石が埋められていた。手袋をはめた手で半球の石を持ち上げると、ぽっかりと丸い穴が空いた。穴はかなり深くまで続いているようで、中は大きな空洞になっている気配がした。
「分骨された骨はここに埋葬されるみたいですね。どうやって掘りましょうか」
穴の周囲は石畳で囲まれている。おそらく野生動物に掘り返されないようにだろう。
「スコップじゃなくてトリモチのついた棒でも持ってくりゃよかったな」
「松田さん、それは賽銭泥棒の手口ですね」
試しに穴の中に腕を延ばしてみるが、空虚を掻くだけで終わった。
「とりあえず、一度戻ります?」
そう高木が言ったときだった。松田は素早く自分と高木のヘッドライトを消して石塔の影に隠れた。高木も察して、反対側の石塔に身を隠す。
葬儀社の門が開かれ、駐車場にトラックが入ってくるのが見えた。
日付が変わろうとしている真夜中だ。とっくに営業時間外のはずだった。
「ここからじゃ見えねえな。近づくぞ」
そっと足音を立てずに霊園を抜けて、駐車場に近づいた。トラックから黒服を来た男が出てくる。遠くからでもその独特なシルエットで下山だとわかった。
いいタイミングで動いてくれたな、と内心松田はほくそ笑む。下山はこんな時間に葬儀社に来る者などいないと油断しているようで、辺りを見回すことなくトラックの荷台の扉を開けた。
松田はハンドサインで、二手に分かれることを高木に伝える。高木は頷き、裏手に回り込んだ。
拳銃の携帯許可は出ておらず、今の松田の武器はシャベルのみだ。だが、そんな武器さえなくても、松田には父親仕込みの拳がある。丸腰の相手ならば、それだけで十分だった。
「よお、下山さんよ」
暗闇から突然現れた松田に、少々の驚きは見せたものの、下山はいたって冷静であった。
「おや、刑事さん。こんな時間にどうしました」
「ちょっと、その中を見せてもらおうか」
「深夜特別価格で大型犬の火葬を頼まれただけですよ」
「怪しんじゃいねぇさ。どんなふうに焼かれたのか見たいだけだ」
「おやおや、動物とはいえ、遺体の前ですよ。冒涜は許されません」
暗闇の中に電光が走った。
顔の真横で松田はスタンガンを持つ腕を止めた。
下山の動きは速い。重量のあるシャベルは邪魔だとばかりに蹴飛ばし、すぐさま腕を捻り上げる。だが、下山は猫のようにしなやかに松田に身体を這わせるように回転し、腕への負荷を回避し、松田の腹部に拳を打ち付けた。
痛みが奔るが、本気で殴りかかってきたときの萩原の比ではない。厚い筋肉に覆われた腹部は下山の拳を跳ね返す。
これはボクシングの試合じゃねぇ。勝てばいい。
怯んだところで膝蹴りを鳩尾に食い込ませる。続けて、右ストレート、そして左ジャブ、右アッパー。感触が軽い。かすった程度だが、顎ならば少しかすった程度でも脳に響く。
実際、下山はふらついた。
「松田さん!」
警棒を取り出した高木が下山の背後に迫った。
だが、下山はふらつきながらも、高木の警棒を薙ぎ払い、払腰で地面に叩きつけた。その動きが洗練されており、伊達と変わらぬレベルだと松田は見抜く。
「てめえ、動機はなんだ。ただの快楽殺人にしちゃ手が込んでやがるぜ」
「快楽殺人だなんてそんな下品なことはしません。私はちゃんと、社会貢献をしているのです」
「なにが社会貢献だ。お前がやってんのはただの殺人だ」
「松田さん、あなたなら理解していただけると思っていました」
「理解だと? ふざけるな。お前の考えなんざ一ミリも理解できねぇ」
「残念、ですね」
下山は刑事二人に現場を見られたというのに、なぜか余裕があった。
その余裕はなんなのか。
そんなものはあとで考えりゃいい。とにかくこいつをぶっ飛ばさないと気がすまねえ。松田は拳を握りしめる。
その時だった。
叫び声が急速に近づいてきた。
そして、松田にぶつかる。
人間だ。どこからか、人間が現れて、松田に突進してきたのだ。
「なん、だ、てめぇ」
「し、下山さんは、恩人なんです!」
そいつは気の弱そな中年の男だった。
「下山さんが、お、親父を、燃やしてくれたから!」
「それを、殺人って言うんだバカ野郎が」
中年男を捕まえようとしたが、松田はがくんと膝から崩れ落ちた。
腰に痛みを感じる。
そっと触れると、そこに何かが刺さっていた。
包丁か、ナイフか、どちらかが。
「くそ、が」
痛みのあまりに視界が狭くなる中で、下山は倒れていた高木を抱えると、トラックの荷台に放り込んだ。そして、火葬炉の扉を開け、台座を引き抜く。
「お、い……、高木、おい!」
下山は淡々と高木を燃やす準備をしている。
「ご存知でしたか。ああ、たしか遺体は火葬されると死因は特定できないのでしたね。では教えてさしあげましょう。彼らの死因はね、焼死ですよ」
高木が台座に寝かされる。
「彼らの中には、はっきりと意識のある者もいたでしょう。自分の死を実感しながら眠りにつくのです。なんと幸せなことか」
でも、と下山は続けた。
「高木さん、でしたっけ。この方は意識のないまま、死を実感しないまま死を迎えることでしょう。残念ながら」
待て、そいつは……、そいつだけは。
せめて、俺を。
「残念ながら、俺はまだ死ねないんですよ。佐藤さんに怒られますから」
下山の腕に手錠がはめられる。
「柔道に勝ち目はありませんが、手錠の早掛けは負けません」
もう片方の輪っかは高木の腕に掛けられた。これで高木を燃やすことはできなくなる。
「下山さんを離せぇ!」
中年男がシャベルを拾って、高木に駆け寄った。松田は落ちていたスタンガンを拾い、中年男の後頭部に向けて投げつける。中年男はうめき声と共に地面に倒れた。
「観念しろ下山。応援を呼んだ。お前に逃げ場はない」
松田は下山に気取られないように、スマホで伊達にメッセージを送っていたのだ。
「なぜ? この高木さんの腕を切り落として逃走することもできますよ」
「そんなことできねえんだよ」
「私が、腕を切り落とさないと?」
松田は立ち上がると、スタンガンを拾い下山の首にあてがった。
「俺がさせねぇっつたら、させねぇんだよ」
電源を入れると、下山は身体を震わせて気を失った。
「ちょ、ちょ、松田さん! 俺も繋がってるんですから!」
「そういやそうだったな」
「ちょっとビリっと感電しましたよ……」
と高木は自分の腕から手錠を取り、下山の両手首に繋げた。松田の手錠は中年男の腕にかけられる。
「高木、ちょっと……、パトカーを迎えに行ってやれ。わかりづれぇ道だから」
「松田さん、怪我は」
高木に見られないように、ナイフを隠した。
「大丈夫だ。早く行けって」
高木は納得できていないようだったが、「わかりました」と行ってパトカーを迎えに行った。
「くそが……」
再び地面に倒れた松田は、腰に広がる生温かい血を感じた。かなりの出血だ。なんとか止血をしなければと思っているところに、伊達からの連絡が入る。
「こんなときになんだよ……班長」
電話に出ると、伊達は珍しく興奮した声で叫んでいた。
「松田! 萩原が!」
「萩が、なんだ」
「萩原が目を覚ました!」
これは幻聴なのか。
死ぬ直前に、幸せな夢を見せてくれているのだろうか。
俺は、死ぬのか。
「萩原が目を覚ましたんだ! だから、死ぬな! 松田!」
「そんなこと言われてもよ……、こっちは腹、刺されてんだよ」
急激に眠気が襲ってくる。
まぶたが鉛のように重い。
萩が起きた。
これは夢なのか。
昔からねぼすけだったが、大人になっても変わらねえ、な。
松田は、スマホを握りしめたまま、身を丸めて眠りについた。
目覚めた当初は、あれから8年もの月日が経っているとは、萩原は実感がなかった。せいぜい一ヶ月や二ヶ月程度であろうと思ったのだ。ついさっき、松田との電話で言った会話も覚えている。そう、「いつもの場所で話がある」と言ったのだ。何を伝えるべきかも、はっきりと覚えていた。
だが、そのとき使っていた携帯電話はもう時代遅れになっており、今は松田が勝手に契約してきたスマホが枕元に置かれていた。使い方がわからずに、看護師に教えてもらった。
そこにあったのは、毎日のように送られてくる松田からのメッセージだった。
とりとめもない内容の、くだらない報告。
毎日、毎日、何通も何通も。
この8年間ずっと。
そのメッセージを読むだけで、寝たきりの生活が飽きずに過ごせた。
しかし、その当の本人が、今は眠っているという。
被疑者の一人にナイフで刺された場所が悪かったらしく、出血量がひどかった。
なんだよ、せっかく目覚めたからこのくそださいメッセージの内容でも茶化してやろうかと思ったのに。
今の松田はどんな姿をしているのだろうか。
もう30歳だとすると、それはそれは渋い男になってのかな。
機動隊から捜査一課の刑事になったと聞いた。
あのじんぺーちゃんが、デカねぇ。
俺の気持ちもまったく察することができなかったあのじんぺーちゃんが。
松田が自分に親友以上の感情を抱いていることは、早くに気がついていた。だからといって、松田は親友以上を飛び越えてこようとはしなかったために、萩原は放置していた。どうせ思春期特有の淡い憧れとかそういうのだろう。大人になれば、綺麗なねえちゃんと出会って目が覚めるだろう。そう思っていた。
だが、機動隊に入隊してからも、松田の恋慕は消えようとはしなかった。
これはまずいな。早く目を覚まさせよう。
俺たちは、ダチだってな。
だから、あの爆弾の解除が終わり、いつもの場所で盛大に振ってやろうと思っていたのだ。俺はお前をダチとして思っていないってな。
さて、当時のことを覚えているだろうか。いや、松田のことだから覚えているだろう。だったら、今度こそ……。
窓から柔らかな風が入り込んでくる。
白いカーテンが優しく揺れた。
ドアがノックされる音がして、医師の巡回かと思い「どーぞー」と間延びした声で応えた。
「失礼します」と言ったのは看護師だった。だが、先に目に入ったのは、車椅子に乗せられた松田だった。自分と同じ入院着を着せられ、むすっとした顔で。
前言撤回、変わっていなかった。
むすっとした顔は、小学生の頃のまんまだった。
そりゃ、8年も寝坊したのだから、それだけ怒っても仕方ないが。
「では、また後で来ますね。松田さんも傷口が開くので無理しないでくださいよ」
看護師は言うと、さっさと去っていった。話し方からすると、かなりの顔見知りと見えた。もしかして付き合ってる? と、ちょっと勘ぐったぐらいには。
「ええと、陣平ちゃん、だよな」
松田は今にも殴りかかってきそうな顔をしたまま、何も答えない。せっかく起きたお前の片思いの相手だぞ。なにか言えよコラ。
萩原はどうしたものかと悩み「メッセージ読んだぜ」「毎日マッサージしてくれてたんだってな」「あーと、今、彼女いんの?」とか、くだらない質問を投げつけてみたが、どれも反応はなく、じっと萩原の顔を睨みつけるだけだった。
それだけ怒っているってことか。それなら、なぜ完治してないのに会いに来たんだか。
萩原は、話すことを諦めて、松田の顔を眺めることにした。あ、白髪だ。
気まずいな。せめて、怒ってるなら怒ってるで、なにか怒鳴りつけられたほうがマシだ。
喧嘩なんて、いつものことだったし。
あまりにも沈黙が続いたため、痺れを切らした萩原は「あのさ」と苦言を吐こうとしたときだった。
松田の口元が動いた。
だが、口からは「う」だとか「あ」だとか、言葉にならない小さな呻き声だけが洩れた。
何かを言いたそうにしているが、うまく言葉を発せない子どものように。
苦しそうに、苦しそうに、吐き出しそうで、吐き出せないように。
伝えたいのに、伝えられずに。
えずくように、肩を震わせ。
前のめりになった松田は、布団に這うように掴んだ。
少しでも、萩原に近づこうとして。
呻き声は、やがて咆哮に変わった。
獣のように、咆え猛るように、松田は泣いた。
萩原の腕に縋り付き、涙が腕を濡らし、松田は咆えるように泣いた。
萩原が起きたら、言いたいことはたくさんあったろう。
何度も何度も、何を話そうかシミュレーションしたろう。
そんなものはすべて無駄になった。
言葉など、必要がなかった。
この8年間の想いが、松田の叫びに詰まっていた。
「陣平ちゃん……」
萩原は、縋り付いてくる松田の頭を抱え込み、背中から頭と強く撫でた。
もう大丈夫、大丈夫だからと。
「陣平ちゃん、ごめんな……ごめん。ありがとう」
緩やかな風が窓から吹いてくる。
優しく、カーテンを揺らす。
動き出した二人の時間を見守るように。
陽光が、病室を照らす。
了
書籍版ではエピソードを追加、その後の話、四ツ屋さんによるゲスト原稿などありました。
2021年6月現在では完売となっています。
また機会があれば再版したいです。