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「松田ってさぁ、幽霊とか信じてたっけ」 松田の隣で喫煙中の萩原が唐突に言った。視線は煙を見ているようで、その向こう側を見ているようにも見える。軽く確認するような口ぶりだったため喫煙中の話のネタに振ったのだろうと松田は解釈し「ガキの頃は信じてたっけな」と思い出話しにしようとした。
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「つまるところ、今は信じてねぇってことだな」 萩原は煙草をもみ消し、ラウンジルームのソファの上で唸りながら背を伸ばした。1分ほどの間があってから「実は」と歯切れ悪く言い出す。 「なーんか、ちょっと相談というか、されちまってよ。……お当番の日に、出るって」
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「は?」目を見開いた松田は手元の煙草を灰皿に落としてしばらく思案した。当番の日に、出る。何が。この会話の流れだ、ひとつしかない。 「寝ぼけてたんじゃねェのか?」冷静を取り繕うようにサングラスを押し上げる仕草を見て萩原は頬を掻いた。「まぁそりゃ、そういう反応になるわな……」
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「誰が言ってんだンなこと」 「一人だったら俺も『疲れてるのよあなた』で終わってたんだけどな」 真偽の程は定かではないが隊の士気に関わるため、何でも良いから不安を取り除きたい、というのが萩原の意見だった。幽霊が怖いから出動出来ません、ではシャレにならない。
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「犯罪者じゃねぇんだから、オマワリさんの出番じゃねぇだろ」そう言い募るが、そう告げる松田自身も萩原と同様に切り捨てることも出来そうにない。「……具体的には?」「夜の所内で、声が聞こえたと言っていたな」手元のシガレットケースを弄びながら、萩原が部下の言葉を思い出していた。
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「声だけか?」 「人影を見た、笑い声を聞いた、後は……」 やけに焦れったく萩原は言う。 「仮眠室で寝ていると、布団の中に目が空洞の女がいた」 「痴女か」 たくましい隊員の肉体美を好む人間も多いが、幽霊にまで好かれるとは。 「今夜、陣平ちゃんも残って確認してみねぇ?」
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「嫌だ」 間髪入れずに、むしろ食い気味に拒否する松田に萩原は瞠目した。 「なんて?」 「俺は痴女と寝る気はねぇよ」 その返答に思わず吹き出した。霊だとか怖いだとかそういう問題ではないことが妙に彼らしいような気がした。 「そうじゃなくて、張り込んで俺らで確認してみようぜって話よ」
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こういうことは妙に噂が広まる前に根絶したほうがよい。松田もそれは理解していたので、渋々了承した。 昼の訓練が終わり、夕方になればそれぞれ寮や自宅へ帰る者が増え、隊舎は少しずつ静かになってくる。泊まり勤務の隊員も数名残ってはいるが、昼がにぎやかな分、余計に寂寞感が増した。
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夕食を近所の中華屋に行く、と言い出したのは松田だった。萩原は深く考えずに頷いたが、珍しく当直勤務時にニンニクを小皿に出して餃子を食べている松田に、違和感を覚えた。 「幽霊とやらはアレだろ、こういうの苦手だろ」 真顔で言う松田につい、吹き出した。 「コンビニでファブリーズ買ってくか」
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冗談で言ったつもりだったが、松田は神妙な顔してファブリーズの成分表を確認し、一人納得して数本購入した。隊舎に戻るなり、仮眠室のカーテンや布団をファブっていく。野郎の体臭が染み込んだ部屋に、爽やかなフローラルの香りが充満した。 「何時ぐらいに出るんだ?」 「さあ、丑三つ時じゃね?」